震災遺族に背を向ける名取市への不信感  取材・文/西岡研介

2016年03月26日(土)現代ビジネス掲載

果たしてこれは、誰のための「復興」なのか?

 

震災発生からちょうど5年となる311日、宮城県名取市の「愛島東部仮設住宅」には兵庫県から41人のボランティアが訪れ、神戸から持参した300本の竹灯籠を並べて、祈りの場を設けた。同仮設には、津波で大きな被害を受けた同市閖上の住民が今も、避難生活を余儀なくされている。

名取市によると、閖上地区の死者・行方不明者は701人と、同市全体の犠牲者(884人)の約8割を占める。特に閖上2丁目の被害は大きく、住民の4人に1人が犠牲になった。

閖上浜ではこの日も、仙台高専の園田潤教授と学生たち、そして13年から閖上地区での行方不明者の捜索を続けている支援団体「STEP」のメンバーらボランティア約50人が、地中レーダーなどを使い、一つでも手がかりを見つけようと捜索を続けていた。

一方、津波に破壊された「貞山堀」の東に位置する築山「日和山」の頂上には、多くの人々が集まって祈りを捧げ、かさ上げ工事が進む旧住宅地では、閖上に津波が到達したとされる午後353分を自宅跡で迎える震災遺族、行方不明者家族らの姿があった。

集まった人たちがそれぞれの思いを抱え、震災から5度目の「あの日」を静かに迎えた閖上地区。だが、名取市では未だに同地区の住民を中心に、市当局の防災に対する姿勢が厳しく問われ続けている。

 

 

損害賠償請求に踏み切った遺族たちの苦悩

 

閖上地区で700人以上の犠牲者を出したのは、本来、災害時に避難を呼びかけるはずの防災行政無線が鳴らず、「地域防災計画」で定められた広報車による避難呼びかけもなかったため――として、閖上で家族を失くした遺族・行方不明者家族(以下、「遺族」と略)4人が名取市を相手取り、国家賠償法に基づく損害賠償請求訴訟を仙台地裁に起こしたのは、201495日のことだった。

震災発生から提訴まで「3年半」という月日に、訴訟という事態に至るまでの遺族の逡巡や苦悩が滲む。原告となった遺族の一人が語る。

「私たち家族も初めから、市を相手に訴訟を起こそうなどと考えていませんでした。ただ、私の子供や親も含めてなぜ700人以上の命が奪われなければならなかったのか、また地震発生から津波到達までの約70分もの間、名取市は一体、何をしていたのか……。真実を知りたかっただけなんです」

遺族らは当初、賛同人を募り「名取市震災犠牲者を悼む会」を結成。震災翌年の125月と7月の二度にわたって佐々木一十郎(ささき・いそお)名取市長に対し、地震発生直後の名取市の避難指示や避難誘導の実態などについて問う、公開質問状を提出した。

しかし、それらの質問状に対する名取市の回答は極めて簡素で、とても遺族の納得のいくものではなかった。このため731日に直接の質疑応答を佐々木市長に求めたが、市長はこれを拒否した。

「そこで、名取市に対し、再三にわたって『第三者検証委員会』を設置するよう求めたのですが、市長は『検証の必要はない』の一点張りでした。このため『悼む会』では検証委設置に向けての署名活動をはじめ、1211月、4000筆の署名を添えて、検証委設置を求める請願書を名取市議会議長あてに提出しました」(前出の遺族)

請願は同年12月の名取市議会「東日本大震災特別委員会」で、全会一致で採択されたが、この請願採択に際しても、佐々木市長は「(法的に拘束力のない)請願なので、仮に採択されたとしても、(検証委を設置するか否かは)その後の行政側の判断に手続き上、なる(委ねられる)」と発言。遺族感情を逆なでしたのだった。

しかしその後、議会や市民からの批判を浴びた名取市は請願採択から8ヵ月後の138月、ようやく検証委を設置。防災行政や津波工学の専門家や弁護士ら9人で構成された検証委は、9月から半年かけて佐々木市長や、同市の防災安全課長、当時の閖上地区の住民らにヒアリングなどを実施し、震災発生直後の同市の災害対策本部の初動対応や住民の避難行動、そして「鳴らなかった防災行政無線」の検証を行った。

が、その検証結果は、名取市当局にとって極めて厳しいものとなった。

 

 

災害対策本部の初動に対する「疑問」

 

144月に検証委から名取市に提出された報告書の冒頭で、検証委は次のように指摘している。

名取市では、津波襲来に備えて、平成20年度に最新のデジタル防災行政無線(同報系)システムを整備しましたが、これが肝心の東日本大震災のときに揺れで故障してしまい、名取市災害対策本部が出した避難指示を伝えることができませんでした。その前年に起きたチリ中部地震による大津波警報の際には、うるさいほど聞こえた防災行政無線が沈黙したのです。

このことが沿岸住民には「安全」を意味すると受け止められた可能性があります。なぜこのようなことが起きたかは大きな謎です。また、その故障に気がつくのも地震発生から4時間以上経過してからです。なぜそれほど遅れてしまったのかも疑問です

さらに検証委員会はこう続ける。

閖上地区に3つある避難場所のひとつである閖上公民館では、閖上中学校の再避難の呼びかけが行われ、再避難の途中で津波に巻き込まれた方もいました。なぜこのような再避難の呼びかけが行われたのか、この点も解明すべき点です。これらの疑問点は、いずれも名取市災害対策本部の初動に関連しています

そして〈 ①名取市災害対策本部の初動、特に大津波が来襲するまでの70分間の動き、②閖上地区の住民の避難行動、とりわけ閖上公民館から閖上中学校への再避難行動、③防災無線の故障原因とそのことに市がすぐに気がつかなかった原因と背景 〉という3点に絞り検証を行った委員会は、震災前の名取市の防災意識をこう批判したのだ。

被害を大きくした要因や背景として、名取市による地域防災計画の軽視と危機対応能力に対する過剰な自信、過去の小さい津波経験から創られた津波に関する「安全神話」、防災行政無線メーカーの安全を徹底的に追求する姿勢の欠如、市防災担当者とメーカーとのコミュニケーション不足、市職員の異動に伴う重要情報の引き継ぎの悪さなどを挙げることができます。これら多くの要因や背景が絡み合い、閖上地区の大きな被害をもたらしたことが明らかになりました

さらに検証委員会は〈 当時の資料が少なく、また当事者の記憶もかなり薄らいで来ていることから作業に大きな困難と限界があったことも否定できません 〉と、名取市が震災から2年半も後に検証委員会を設置したこと自体にも疑問を呈したのだ。

行政機関が、自ら設置した第三者検証委員会からここまで批判されるケースも珍しいが、検証委から最終報告書の提出を受けた名取市は、その厳しい内容を未だに市議会にも、市民にも説明していないという。

再び原告の遺族が語る。

「検証委の専門家の方々は、限られた時間と資料の中でよく調べて下さったと思いますし、感謝しています。けれども、なぜ防災行政無線が故障したのか、またどうして防災無線が放送されているか否かを確認しなかったのか、そしてなぜ防災行政無線以外に避難を呼びかける方法を取ろうとしなかったのか――等についての検証結果は残念ながら、納得がいくものではありませんでした」

それでも名取市の態度は変わらない

国家賠償法には、損害賠償請求権の消滅時効の規定がないため、民法第724条(不法行為による損害賠償請求権の期間の制限)が適用され、〈被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から〉3年とされる。よって遺族らの損害賠償請求権も、震災発生から3年経った14311日に時効を迎えようとしていた。

「その段階ではまだ、第三者検証委員会の最終報告書が提出されていなかったため、時効を6ヵ月延長する法的措置を取り、提訴するか否か、ぎりぎりまで悩みました。家族が裁判による金銭的、精神的負担に耐えられるかという不安も大きく、なかなか決断できませんでした。

また私たち家族と同じように名取市の対応に疑問を持つ閖上の住民の中でも、行政を相手取って裁判を起こすことには消極的な人が大半でした。そして一般社会では、震災遺族が訴訟を起こすことについて否定的な意見も多いことから、裁判に関係のない家族にまで悪影響が及ぶのではないかと心配もしました。

けれども、ここで真実をうやむやにしてしまえば、閖上で亡くなった700人以上の命を無駄にしてしまう、真実を明らかにし、それを後世に活かすことで、この先、どんな災害に見舞われても、決して今回のような犠牲は出さないようにしたい――との思いから提訴に踏み切りました」

第三者検証委員会の関係者も、提訴に至った遺族の心情にこう理解を示す。

「あそこまで遺族が行政に不信感を募らせたのは、ひとえに名取市長をはじめ、市当局の対応のまずさが原因だ。遺族から公開質問状を受け取った12年の段階で、遺族と真摯に向き合っていれば、訴訟という事態にまで発展しなかったと思う」

しかし、「訴訟という事態」にまで発展しても、名取市の態度は変わらないようだ。

141110日に仙台地裁で開かれた第一回口頭弁論後の会見で、被告の名取市は遺族の訴えに対し、「原告(遺族)に対してこれまでも第三者検証委員会の結果等を踏まえて、(名取市には法的)責任はないと回答している」(被告代理人弁護士)と、請求の棄却を求めて争う姿勢を表明。

151021日に開かれた第六回口頭弁論では、遺族側の「真実を明らかにし今後の防災にいかしたいという、原告の思いに真摯に応える気持ちがありますか」との問いに対し、「答える必要はない」(被告代理人弁護士)と突き放した。

 

 

「減災・復興支援機構」の信じ難い暴挙

 

ところが、その日の口頭弁論で、原告のみならず、全国の防災関係者を唖然とさせる事実が明らかになったのだ。

第三者検証委員会の事務局を務めた一般社団法人「減災・復興支援機構」(木村拓郎理事長・東京都新宿区)が、検証委が佐々木市長や、防災安全課長らに行ったヒアリングの記録や、震災直後の災害対策本部の対応、市民の避難行動に関する記録など、前述の最終報告書の基礎となる資料を全て廃棄していたというのである。

原告弁護団によると、遺族側が1525日、支援機構に対し、電話で基礎資料の開示を求めたところ、機構は「(開示)請求者がたとえそれが名取市であっても、資料の開示には応じられない」と拒否したという。

このため遺族側は同年5月、今度は裁判所を通じて支援機構に基礎資料の開示を求めたが、機構はこれを拒否。8月にも再度、基礎資料の提出を求めたところ、機構は9月末、〈(基礎資料は15年)5月頃、廃棄した〉と回答してきたという。前述の25日時点で原告弁護団が「訴訟に必要」と伝えていたにもかかわらず、である。

支援機構は裁判所に対し、廃棄した理由を文書で次のように述べたという。

当社団と名取市との業務委託契約書には、収集資料の保管の義務付けはなく、一方、知り得た情報については、『いかなる場合にも他に漏らしてはならない』という規定が明記されていたため、廃棄した。処分にあたって、特に名取市と協議していない

確かに、支援機構の主張する通り、名取市と支援機構が締結した「平成25718日」付の「『東日本大震災第三者検証委員会運営業務』業務委託契約書」には〈収集資料の保管の義務〉に関する規定は無い。また前述の基礎資料は、法律で保存期間が定められた法定保存文書でもない。

だが、総務省の〈行政文書の最低保存期間基準〉に照らしても〈調査又は研究の結果が記録された〉文書、あるいは〈職員の勤務の状況が記録された〉文書の保存期間は3年が妥当とされている。にもかかわらず、最終報告書の提出から僅か1年余りでその基礎資料を破棄するとは、「減災・復興支援機構」と称する団体の常識を疑わざるを得ない。

さらに言えば、第三者検証委員会自体が、その最終報告書で〈今後、減災対策を進めるためには、大災害時の被害と対応の実態を記録として残すことがきわめて重要であることは論を待ちません〉と述べている通り、この報告書だけでなく、その基となった基礎資料は、後世に残すべき貴重な「財産」のはずだ。

そんな貴重な財産を僅か1年余りで廃棄しておいて、「減災」も「震災の教訓」もあったものではないが、前述の名取市と支援機構が締結した業務委託契約書によると、〈平成25718日から平成26331日〉の8ヵ月の業務委託に約4,500万円もの契約金が支払われている。原資は言うまでもなく、名取市民の税金だ。

名取市から多大な報酬を受けているにもかかわらず、同市に相談もなく、基礎資料を破棄したという支援機構の説明は俄かには信じ難い。

 

 

あまりにも不誠実な名取市の対応

 

支援機構の説明に疑問を持った原告弁護団は1625日、裁判所を通じて、支援機構に対し▽基礎資料の廃棄処分が行われた具体的な日にち▽処理業者に委託した際の領収証等、廃棄処分をしたことを裏付ける資料▽廃棄処分の意思決定の経過――などを明らかするよう求めた。

が、これに対し機構は39日、木村理事長名で次のように文書で回答した。

平成275月中旬ごろに廃棄処分を行った。紙資料についてはシュレッダーで裁断し、ハードディスクについては物理的に粉砕し、再生不能な状態にした上で、ごみ収集に出した。これらの作業は(支援機構が)自ら行ったので、業者に委託した際の領収証等はそもそも存在しない。廃棄処分の時点で既に第三者検証委員会は解散しているので、委員会として意思決定したのではなく、理事長の判断で廃棄処分を決めた

私も木村理事長に対し、基礎資料を廃棄した経緯、またその際、名取市と協議していないというのは事実か否かを問い合わせたが、理事長は「同様の質問を既に仙台地裁からいただいており、回答書(前述)を提出しているので、それを参考にしてほしい」と答えた。

また名取市に対しては、支援機構が名取市と協議しないまま、基礎資料を破棄したことについての見解を質したが、「訴訟案件であるため、回答は控えさせていただきます」(総務課)とコメントした。

第三者検証委員会の基礎資料を、名取市に相談もなく破棄した「減災・復興支援機構」に同市が支払った4,500万円もの税金について、「名取市閖上津波訴訟」の支援者たちは近く、同市に対し住民監査請求を起こすという。また原告らは提訴後、「家族のために」というHPを開設。宮城県内を中心に支援の輪が広がりつつある。

震災から5年――。佐々木市長をはじめ名取市当局に対する震災遺族、行方不明者家族の不信感や、拗れた感情はもはや修復不可能なところまできてしまった。

東日本大震災では、沿岸部の多くの自治体が、庁舎が全壊、職員を失うなどの大きな被害に見舞われ、行政機能の停止を余儀なくされた。このため、『ふたつの震災』の取材を始めた当初から、私も、共著者の松本創も、安易な行政批判は避けようと心掛けてきたし、その方針は今後も変わらない。

しかし、この5年間、私は、原告となった閖上の遺族を通じて、名取市の行政を見続けてきたが、同市の震災遺族に対する姿勢は、被災地の自治体としてあまりに不誠実で、その対応は杜撰極まりないと言わざるを得ない。

過去の失敗に学ばず、今なお「検証」から目を背けようとする自治体の描く「復興」とは果たして、誰のための「復興」なのだろうか。

 

 了